藤原ナントカに関する日本史の問題(2)
「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」と桓武天皇に進言したのは?
(A)藤原薬子
(B)藤原種継
(C)藤原緒嗣
ヒント:選択肢の人物が活躍した時代
759年 | 万葉集が編纂される |
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764年 | 恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱 |
784年 | 長岡京に遷都 |
794年 | 平安京に遷都 |
802年 | 征夷大将軍の坂上田村麻呂が胆沢城を築く |
正解 : 「天下の民が苦しむところは軍事と造作である」と桓武天皇に進言人物
(C)藤原緒嗣
・徳政論争で蝦夷征討と平安京造営の中止を進言したのが藤原緒嗣
・藤原種継は造長岡宮使として長岡宮の造営を行った人物
・藤原緒嗣、種継とも藤原宇合の孫(藤原式家)
試験に出る藤原ナントカ
藤原のナントカ関係図(2)
【藤原四家の中の式家】
藤原宇合→(孫)藤原緒嗣、藤原種継→(娘)藤原薬子
- 藤原宇合(うまかい)の孫が藤原緒嗣(おつぐ)と種継(たねつぐ)
- 藤原種継の娘が藤原薬子
- 平城太上天皇の変(薬子の変)により式家は衰える
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
- 737年〜785年
- 式家・藤原宇合(うまかい)の孫
- 造長岡宮使となり長岡宮の造営にあたる(桓武天皇が平城京からの遷都を希望したため)
- 長岡宮の造宮中に大伴家持らにより暗殺される
藤原緒嗣(ふじわらのおつぐ)
- 774年〜843年
- 式家・藤原宇合(うまかい)の孫
- 菅野真道(すがののまみち)と徳政論争を行う
- 徳政論争では桓武天皇に蝦夷征討と平安京造営の中止を進言する
藤原薬子(ふじわらのくすこ)
- ?〜810年
- 式家・藤原種継の娘
- 平城天皇と恋仲になり政治にも介入(別にいる夫は九州送り)
- 兄の藤原仲成(なかなり)とともに権力を握る
- 平城太上天皇の変(薬子の変)を起こすが追い込まれて自殺
【関連】平城太上天皇の変
- 薬子の変とも呼ばれる
- 平城上皇と嵯峨天皇との対立による事変(810年)
- 藤原薬子らが平城上皇の重祚(ちょうそ)を図ったもの
- (重祚…再び天皇に即位すること)
- 平城上皇(平城京)と嵯峨天皇(平安京)の二所朝廷と呼ばれる混乱が原因
- 嵯峨天皇側が勝利し、平城上皇は出家、薬子は自殺
- この事変をきっかけに藤原式家は衰える